Fiction / The End

大人になって暴力を振るうと犯罪になるじゃん?だから私は暴力の代わりに〇〇を使うよね!

鼻くそ男とぶっかけおじさん 渋谷酔拳でギャルナンパ

酔うとはいっても、様々な「酔」があり、酒や乗り物など体質的なものから自分や他人の魅力に対する精神的なものまで多岐に渡る。


そして私は目撃者となった。しかも1日に2人もである。少々の「酔」は取り上げるに値しないが、本件はあまりにも常軌を逸していたためレポートとしてまとめた。

現実は小説よりも「酔」なり。社会規範が崩壊するなか、その反動とし浮き彫りとなる悪酔いは私の眩しすぎるプリティフェイスを歪ませるに至った。

これは決して誇張ではなく、未来に憤りを覚える大衆の声にならぬ叫びそのもの。看過することのできない喫緊の課題であり、これまで潜伏していた「病」が暴れ出した証なのだ。

それでは読んでいただこう。私が美と健康を顧みず、文字通り身を削って書き上げた渾身のレポートを。


金曜日。

再開発が進む渋谷の某飲食店での酔。華金で盛り上がる繁華街では酒がつきもの。そして、〆のラーメンといえば酒豪たちの終着駅である。

酒で麻痺した味覚さえも覚醒させる動物性油脂スープが舌を痺れさせ、脳への恍惚感を煽る。そのクセになる刺激はヒロポンばりの依存性を有しており、人間性をも破壊するのだ。

しかしこの日は勝手が違った。いや、潜る暖簾を間違えたのか、ひとりのエリートサラリーマンと思しき装いの悪酔い紳士が〆の「定食屋」へと迷い込んだのだ。

入店時にはすでに言語中枢の働きが著しく低下しており、道徳観・倫理観とも欠如していた。仕立てのいいスーツや整えられた頭髪も説得力を持たず、唯一彼を支えているのは下心のみ。

ホールの女性アルバイト店員を舐め回すように見ては雑な営業トークとボディタッチで欲望をむき出しにする。

決してモテないタイプではない。むしろイケメンである。女にも困ってはいないだろう。しかし、酒が彼の理性を奪っているのだ。

侮蔑の眼差しさえ察知できずに童心に帰る彼はまるで、おもちゃをねだる駄々っ子。 

そしてついに彼は「革命」を起こすのだ。

ぶっかけである。お茶碗に盛られた白飯に味噌汁、漬物、おかずなどを激射し、ビジュアル的には“ゲロ”そのものである据え膳に仕上げたのだ。

渋谷のソフトオンデマンドここにありである。

それを食わぬは男の恥といわんばかりに犬食いする姿はもはや人間ではなく、例えるなら樹液をすする蟲。羞恥心を無くした危うき昆虫は今日も灯を求めて自らを貶めるのだ。


そして、もうひとりの自己陶酔の蟲は帰宅ラッシュの電車に巣食っていたのだった!!!


(多分つづく)

かたや超人ハルクかたや殺し屋ファブルではあるが

ここであえて書くまでもないがジャニーズ界隈が騒がしくなって久しい。


狭き門をくぐり抜けて竜宮城へ辿り着いた“硝子の少年”たちが気がつけば人生も半ば。若さと人気に永遠がないことを知り、飽きられることなど百も承知な事務所は時代に即したトレンドで塗り固め延命措置をとる。


その道程でいちはやく生き抜く術を察知した者だけが老獪に幅を効かせる。


俺は今まで一体何をしてきたんだ。「オッハー!で、マヨチュチュ!」と叫び女装してスポンサーに媚びるのではなく、もっと違う、もっと漢らしい生き方があったのではないだろうか。


そんな胸の内を放つような、怒りに満ちたクズを演じたのが竜宮城上がりのコレステロール狂人ハルクである。


映画「(草)凪待ち」はクズであるがゆえに、周囲にクズが集い、クズにクズのような扱いを受けて、時にはクズを信じ、クズに裏切られ、そして自らがクズの蛮行に激怒し、クズ以下に成り下がるも、


それでもそのゴミクズ以下に手を差し伸べる元クズの面々によって明日に希望を繋げ「オッハー!で、いっけんらっくちゃっくぅ!」といったあらすじである。


とにかく見所は満載であり、舞台となる岩手の漁師町の潮風と湿気が立ち込めた雰囲気が郷愁を感じさせる。また、季節は生暖かい夏であり、いい塩梅に劣化した楽しんごの顔面に「マヨ脂」が浮き上がる。梅雨明け待ち遠しい、まさに“今”を感じさせる気だるさに序盤から充足感でいっぱいだ。


それに棹差すようにバイオレンスと義理人情ストーリーが花を添え、そして「凡人ハルク」と化した楽しんごがとどめを刺す。


ネタバレとなるが、気のおけない友人の死に狂人ハルクと化した楽しんごは組事務所へ単身乗り込むのだが、返り討ちにあって死にかけるも、義理堅い組長の情けで生かされる。そのときに彼を引き取りにきた元クズとクズ予備軍で肩を並べて家路に着くのだが、まさにそのディテールが「超人ハルク」なのだ。


いつのまにかそんなガタイになったのだろうか。まだ「マヨチュチュ」をやっているのだろうか。もういいんだよ。


そんな言葉が口をついて出て、不謹慎ながらも忍び笑いをしてしまった。クズだからわかる。クズだから共感できる。わかちゃいるけどやめられない。


まるで用意されたシナリオをマヨでなぞるようなクズアクションに感服させられ、後味は最悪である。少しでも真っ当な道を行く者であれば、彼のマヨっぷりに強烈な胸焼けを覚えるであろう。



一方で殺し屋「ファブル」である。


浮かない顔してどしたの?わからないならほらね、さぁ輪になって踊ろう!今すぐー


というスーパーポジティブな嫉妬曲(ジェラシーソング)を世に送り出し一世を風靡したおでこ冷えピタ王子の登場である。贔屓(ひいき)にするお笑い芸人で悶絶する怪演はただただ不気味であり、このテイクだけで相当な時間を要したことは想像に難くない。


ご無理は身体に毒であるが、あの突き抜けようとボルテージを上げようとするドーピングは結果的に殺し屋としてのアクションに寄与したと思われる。


こちらは葛飾区亀有公園前、はっしゅつじょ、はしゅっつしょ、派出所(伝説のNGテイク)とは相反し、スーパースターの扱いである。


卓越した殺戮の技術に鍛え上げられた肉体、まだまだ竜宮城は健在である。アクションシーンは身を乗り出して魅入ってしまうほどの迫力があり、ここで登場するクズたちにもいい意味でケジメがありスカッとさせられる。


ジメジメとまとわりつく湿気もなく、清潔感に溢れている。ヒロインの健気なスタンスも好感が持て、人質としてクズたちに拉致され、見張りの案山子にブーメランパンツ一丁で襲い掛かられるも、首の皮一枚で純潔を守り続ける強運さも評価できる。


これは製作陣にテンガを贈りたいところだが、危ういエロス感が全くない。男性陣であれば下の拳を硬くするとろこであろうが、ファブルのバイブスがそれを粉砕している。


本当に「漢」くさい映画であった。スクリーンで久々に拝見した向井理だったが、インテリヤクザの嫌味感をよく表現しており、あれは素に近いのではないだろうかなどと思ったりもした。


そして武勇伝でおなじみの彼もクズ役で好演していた。ウシジマ社長との共演でもいいクズっぷりであったが、今回はより短い尺で筋金入りのクズを表現していたので正直驚いた。彼はユースケサンタマリアの代打として揺るぎない地位を築けるのではとさえ感じたほどだ。


いずれにしても二本ともよい出来であったことは確かである。ただ「(草)凪待ち」はかなりの精神的エネルギーを消耗するので注意が必要だ。誰もが心に奥底に持つ“怠惰”さをえぐられるようで刺さるものがあるだろう。


鑑賞後に映画館のロビーで井戸端会議をしているおばちゃん軍団がいて「ファーブル」がどうだ、「ファーブル」ああだなどと盛り上がっていたが断じて“昆虫記”ではない。


また、「(草)凪待ち」と「ファブル」に関してひとつ事実を言っておこうと思う。この2作品の主人公は実は逆だったのだ。つまり、超人ハルクが「ファブル」を、そしておでこ冷えピタ王子が「凪待ち」を演じる予定だったのだ。


相変わらずの竜宮城は深い闇の中である。

哀しすぎるトリスターナの運命とまたしても筆を執ってしまう男

どうやらまた来てしまったらしい。


再びブログで文字を綴ることになるとは思いもしなかった。1970年代のフランス映画を後学のためにと鑑賞したのだが、劇中のトリスターナさながらの「夢」と「現実」を彷徨う展開に肉体と精神は疲れ果て、劇場を出る気力すら奪われていた。


恐ろしすぎる。フランス映画といえばフレンチポップのピチカートファイブを彷彿とさせ、鑑賞後の凡人をモデル化、ランウェイを歩くかの如く街を闊歩させ、大衆の視線をロックしてしまうというイメージが強い。勘違いナルシストを一時的に量産する「大量破壊兵器」といっても過言ではないであろう。


だが、この日は違った。トリスターナの怨念なのか、脂ギッシュな顔面にいつ生み出されたのか皆目見当のつかないニキビ、トイレに映った醜い自分に慄き、身を隠すように家路に着いたのだ。



さて、表題の「哀しきトリスターナ」という映画だが、睡魔に襲われながらも印象的だったシーンを紹介しよう。


まずは侯爵の言葉である。


決して口説いてはならない女とはいかなる女か?それは2種類あると友人たちに説いていた。


どれだけ財を成しても、女性関係では踏み越えてはならない壁があるようで、、、


ひとつめは「友人の妻」。


そして、ふたつめは「純粋無垢な乙女」である。


すなわち紳士は社会通念から外れた火遊びはするなという至極まっとうなものである。



また侯爵は仕事に関することも次のように説いていた。


飯を食べるためだけにする労働は品がないと。また、弱者を守るために我々がいると。


順風満帆とはいえないが、老いた侯爵が仲間たちと卓を囲み、当時は高級品であったであろうココアや茶菓子を嗜むシーンにその哲学が表れている気がした。


晩年は最愛の人であるトリスターナの空電話と開けゴマ冷却により絶命するわけだが、憎めないおじさまであった。


侯爵没後のトリスターナは傲慢さに磨きがかかり、まるでデビースカルノ婦人とミッチーとサッチーを足して川島なお美ワインで割ったような感じであり、可憐で純粋だった若き日の彼女の見る影もなかった。


トリスターナを演じた女優は「昼顔」という映画にも出演しているらしいが、わたくしの知る「昼顔」は裏ビデオ黎明期のそれが全てである。


しかし、恐ろしかった。まるで侯爵の最後を待ち構えるように松葉杖をつきながら廊下を何往復もするトリスターナの姿。その瞳には夢も希望もなく、あるのは「諦念」と「憎悪」のみ。


過酷な境遇を受け入れ健気に生きてきた女の成れの果てはどこまでも残酷であった。


鑑賞前にとってもリーズナブルで超絶コスパのフレンチで腹を満たして挑んだのだが、その味すら失念するほどの衝撃であった。


そして、本日また二本の映画を観た。