哀しすぎるトリスターナの運命とまたしても筆を執ってしまう男
どうやらまた来てしまったらしい。
再びブログで文字を綴ることになるとは思いもしなかった。1970年代のフランス映画を後学のためにと鑑賞したのだが、劇中のトリスターナさながらの「夢」と「現実」を彷徨う展開に肉体と精神は疲れ果て、劇場を出る気力すら奪われていた。
恐ろしすぎる。フランス映画といえばフレンチポップのピチカートファイブを彷彿とさせ、鑑賞後の凡人をモデル化、ランウェイを歩くかの如く街を闊歩させ、大衆の視線をロックしてしまうというイメージが強い。勘違いナルシストを一時的に量産する「大量破壊兵器」といっても過言ではないであろう。
だが、この日は違った。トリスターナの怨念なのか、脂ギッシュな顔面にいつ生み出されたのか皆目見当のつかないニキビ、トイレに映った醜い自分に慄き、身を隠すように家路に着いたのだ。
さて、表題の「哀しきトリスターナ」という映画だが、睡魔に襲われながらも印象的だったシーンを紹介しよう。
まずは侯爵の言葉である。
決して口説いてはならない女とはいかなる女か?それは2種類あると友人たちに説いていた。
どれだけ財を成しても、女性関係では踏み越えてはならない壁があるようで、、、
ひとつめは「友人の妻」。
そして、ふたつめは「純粋無垢な乙女」である。
すなわち紳士は社会通念から外れた火遊びはするなという至極まっとうなものである。
また侯爵は仕事に関することも次のように説いていた。
飯を食べるためだけにする労働は品がないと。また、弱者を守るために我々がいると。
順風満帆とはいえないが、老いた侯爵が仲間たちと卓を囲み、当時は高級品であったであろうココアや茶菓子を嗜むシーンにその哲学が表れている気がした。
晩年は最愛の人であるトリスターナの空電話と開けゴマ冷却により絶命するわけだが、憎めないおじさまであった。
侯爵没後のトリスターナは傲慢さに磨きがかかり、まるでデビースカルノ婦人とミッチーとサッチーを足して川島なお美ワインで割ったような感じであり、可憐で純粋だった若き日の彼女の見る影もなかった。
トリスターナを演じた女優は「昼顔」という映画にも出演しているらしいが、わたくしの知る「昼顔」は裏ビデオ黎明期のそれが全てである。
しかし、恐ろしかった。まるで侯爵の最後を待ち構えるように松葉杖をつきながら廊下を何往復もするトリスターナの姿。その瞳には夢も希望もなく、あるのは「諦念」と「憎悪」のみ。
過酷な境遇を受け入れ健気に生きてきた女の成れの果てはどこまでも残酷であった。
鑑賞前にとってもリーズナブルで超絶コスパのフレンチで腹を満たして挑んだのだが、その味すら失念するほどの衝撃であった。
そして、本日また二本の映画を観た。